心と体

2008年2月 4日 (月)

マサの一押し!!!\(~o~)/

美容と健康に、食べる健康茶「ヤーコン痩美緑茶」(30包入)【野球_日本一2007シーズン】 美容と健康に、食べる健康茶「ヤーコン痩美緑茶」(30包入)【野球_日本一2007シーズン】

販売元:広島珈琲
楽天市場で詳細を確認する

☆健康トルマリンネックレス ☆健康トルマリンネックレス
販売元:フジックス
フジックスで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月27日 (日)

逃がした運は、いったん「見切る」

ひとたび運に見放されたと思うと、何をやるのも億劫になってくる。「どうせ運に見放されてい

るから、何をやってもうまくいかないさ」というわけだ。

何かしなければならないと分かっていても、また失敗するのが怖くて、つい何もしないままダ

ラダラ過ごしてしまう人も多い。そんなときは、自分に二者択一を迫ってみるのも一つの方

法である。「いまやらなければ、全てを失うことになる。それでも自分は何もしないのか」と

自分に問うてみるのだ。

これは、いわゆる「二値的考え方」の一種である。ある問題について、正と邪、生と死な

ど、二つの面だけに割り切ってしまうのは、問題を単純化させすぎて、選択を誤らせるとい

う批判もある。

選択肢というのは多いほどいいのだが、例外もある。運から見放されたと思い込み、絶望

の淵に立った自分を発奮させるには、こうした単純化こそが重要なのである。

たとえば生死を賭けた戦いで、敵と出会ったときだ。パニックに陥って、自分がどう行動す

ればいいのか分からない。このとき、「生き残るには、戦うか逃げるしかない」と二元化す

れば、どちらを選択すべきか見えてくる。

生か死か、戦うか逃げるかといった単純化が、生死の境において自分のとるべき行動を

見つけ出す手がかりとなるのである。ここであやふやな判断をすると、命を落とすことにも

なるから、二者択一は重要だ。

絶望の淵に立っているときも同じである。残る選択肢は「やる」か「あきらめるか」のどちら

かしかないと、自分の立場を単純化してしまう。このとき「やる」を選択するなら、後は動く

しかない。それが新たな状況を呼びこむことにつながるのだ。

あるジャズ演奏家から、こんなスランプ克服法を聞いたことがある。スランプに陥って、ど

うしてもうまく楽器を演奏することができない。自分には演奏家としての才能がないのでは

ないかと不安にもなってくる。

そんなときはジャズのことを忘れ、楽器にもいっさい触れないようにするといのだ、。

何日かすると、やがて楽器に触りたいという気持ちが起きてくる。このまま一生、演奏をし

ないのはいやだ。才能があるかどうかより、とにかく演奏したい。そう考えられたとき、スラ

ンプから脱出しているそうだ。「まったく演奏しない」という期間を設けることで、あえて「や

る」か「あきらめる」かの二者択一を自分に迫っているのである。

たいていの人は、「あきらめる」とはいわない。何とか行動する方を選ぶ。苦しまぎれの選

拓とはいえ、一度、前向きな方向に向かうと決めれば、そこから積極的な発想も生まれて

くる。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月23日 (水)

前向き思考は、体に直接元気を与える

前向きな考え方そのものが、体に直接元気を与える。

たとえば、風邪が流行っていても、「この仕事が終わるまでは絶対寝込めない」と思

っている間はひかないものである。仕事が終わってホッとしたところで、熱が出はじ

めたりする。

やる気があって、前向きに仕事に取り組んでいるときは、免疫系もがんばって働い

ているのである。

マザー・テレサの映画を使って、免疫機能の増減を調べたデータがある。

マザー・テレサは、インドで病気にかかっている貧しい人や死にかかっている人々を

献身的に看護してノーベル平和賞を受賞した女性だ。その仕事ぶりを活写した映画

を学生たちに見せたところ、彼らの免疫機能は一時間以上、上昇したままであった

という。

他人を愛し、強い意志で献身する姿は、見る人の心まで元気づけてくれるようであ

る。

戦争とか拷問、恐怖の映画なら、逆の結果になるに違いない。

心理的にマイナスの感情でいるとき、たとえば「自分が状況をコントロールできない

と思っている」とか「孤独を感じている」とき、免疫反応は弱くなる。

それがてきめんにあらわれるのが、入院中の患者である。

回復の見通しをもたず、受け身で、なんに効く薬を飲んでいるかも知らず、無力感を

もって治療を受けているときよりも、自分自身が治療の主役になったつもりでいた

り、「この薬できっと治る」と思って飲んだ方が、回復が早い。

しかし、いくら「前向き」な人は免疫力が高いといっても、気持ちの持ち方ひとつで、

何でも治せるという精神主義は危ない。

医学的に正しい正しい診断、正しい治療を受けたうで、自分が人間としてもともと持

っている力を十分に生かしなさい。ということである。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月22日 (火)

走りたい遠路を歩いてみる

夢に向かって生きている人は、何歳になっても輝いてみえる。

しかし、残念なことに、ときどきその夢に潰されてしまう人もいるようだ。

夢を描いたのはいいが、なかなか叶わないので、しだいに不満が溜まってしまうの

である。

たとえば、家を持とうと思っても、そのために何も努力しなければ、やがては『自分

には無理だ』という気分になり、気が滅入ってしまう。

自分の夢はなかなか、叶わないのに、友人、知人が着々と夢を叶えているようにみ

える。ますます気分は重く滅入ることになる。

友人が豪華客船で世界一周の旅に出たと聞いて、『羨ましい』と思う。

これは人間の心の自然な動きである。しかし、自分の夢への道がなかなか進んでい

ない状態だと、一時的な『羨ましい』ですまなくなってしまう。     

悔しいと思い、相手への嫉妬心が増大し、ふがいない自分への不満となる。

不満を溜めてしまうようでは、なんのための夢かわからない。『こんなことなら夢など

最初から持たなければ良かった』ということになってしまうだろう。

せっかくの夢が不満の原因になってしまうのは、夢の現実に向けてのプロセスに問

題があるのだろう。

何をどういう方法で積み重ねて実現していくかをもう一度チェックしてみることである

。たとえば、『スイスアルプスに行きたい』と夢を描いたとする。

ここからが肝心である。

アルプスに行くチャンスが訪れるまで、ただ漫然と待っているだけではいけない。

待っているだけで何もしないでいれば、夢が実現するわけがない。実現するのは、

行けないために生じるストレスによる心身の不調ぐらいだ。

ではどうしたらいいか。

夢に関係のあることで、そしてすぐに行動に移せるようなことを『小さな目標』として、

こまめに設定するのである。

スイスアルプスへ行ったときに、その旅を120%楽しむために、英語を学び直すの

もいい。あるいは、新たにドイツ語とかフランス語にチャレンジしたり、アルプスで出

会えるはずの高山植物の名前を覚えたりするのである。足腰を鍛えるために週末

には近郊の低い山に登ったりするのもいい。旅行用の貯金通帳をつくって、毎月少

しずつ貯金するというのも手である。

こうして実際に行動していると、学習の進度や行動や貯蓄の実績という目に見える

形で、夢に一歩一歩近づいていくのを実感できる。

これが実感できると、満足度と同時に次への励みというプラス感情を手にすること

ができ、夢の膨らみが増していく。

これを学びの中で積極的に取り入れたのが、日本の武道やお茶やお花である。

段位も設け、初段を取ったら次は二段、三段と目の前の目標を設定する。学ぶ人は

いつの間にか腕前が上がっているというわけだ。

人生には思いがけないことが起こる。もし、夢が実現することなく終るようなことにな

っても、こうして夢への一歩一歩を実感することができた人は、夢に向かって歩いて

きた日々を大切な思い出とすることができる。

夢はもつべし、そして持ったら実現のための小刻みな歩みを自分に課すべし、であ

る。

夢は大きく、努力は少なくでは、なかなか実現できず、かえって不満の元となる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月15日 (火)

こんな一言が落ち込んでいる気持ちをすくいあげる

苦しんだり悩んだりしているときでも、その気持ちを分かってくれる人がいれば、その辛い気持ちはいくらか和らぐ。他人の気持ち、特に、苦しみや悩みを、自分の苦しみや悩みとして分かち合おうとする、本来の意味の「同情」は、実に高度な人間の感情と言って良い。            心に余裕がないときは、自分のことを考えるのが精一杯で、他人の気持ちになって考えることはできない。「人が困っているのを見て平然としているのはよくない」と。                 小さいときから教わっているので、「かわいそうだ」と思うのは、心に多少の余裕がある人だ。見せかけの同情は、単なる憐憫の情であって、心がこもっていないから、苦悩の中で辛い思いをしている人には通じない。逆に、神経を逆なでする結果になって、距離反応を起こされてしまう。心から相手の気持ちを分かろうとする気持ちがないときは、同情の言葉は口に出すべきではない。                                          仕事場では、苦悩というほどのことではなくても、色々と苦労しなくてはならないことが、毎日のように起こる。                                                 極度に神経を使わなくてはならない仕事や、膨大な量をこなさなくてはならない仕事など、 普段よりも特別のエネルギーを要する仕事をすることになった人に対しては、やはり、それなりの同情を示す必要がある。                                           特に、自分が上司の場合は、自分の部下がどのような苦労をしてその仕事をしているかについて、仕事の内容を知っているだけによくわかる。そんなときは、その労苦に対する「ねぎらい」の言葉は不可欠である。                                       単に、骨の折れる仕事をしているという事実を認めることばでも良いし、それに対して感謝の言葉を付け加えても良い。励ましの表現でも良い。                             ねぎらいの言葉をかけられた部下は、上司が自分のやっていることに対して関心を持ち、その苦労を理解してくれていることを知る。それだけで、気持ちが落ち着き、おおいに元気づけられる。                                                   仕事が終わったときに言う、ねぎらいの言葉に、「ご苦労様」「お疲れ様」というのがあるが、あまりに陳腐なので、ねぎらいの気持ちが伝わらない。「これからは楽をして」とか「もう遊んでいいよ」とか、気の利いた言葉をかけてみたらどうだろうか。                      忙しい状態が長く続くときは、単に言葉をかけるだけではなく、食べ物や飲み物の「差し入れ」をするのも、ねぎらいの気持ちの効果的な伝え方だと思う。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月14日 (月)

上司と部下、この一言で心の距離は縮まる

「仕事の鬼」と言われている人がいる。仕事ひとつに打ち込んでいて、仕事を取り上げたら何も残らないような人だ。つきあいも取引先や社内だけで、仕事上のものしかない。友人との交流もあまりなく、同窓会があっても、仕事上の会合を優先する。趣味は何かと聞くと、「仕事」という答えが返ってくるぐらいで、何の趣味もない。                                    それだけに、仕事に関しては、上司に対しても部下に対しても非常に厳しい。どこまでも自分の筋を通していくので、上司に対しても敢然と食ってかかる。もちろん、自分自身に対しても、情け容赦なく厳しい態度に徹している。                                             しかし、そのような人たちにも弱みはある。家族の話になると、途端に、普段の態度は一変する。論理もまったく通用しない世界になり、身を乗り出して話し始めたかと思うと、相手の言ってくれるコメントに目を細めて耳を傾ける。                            どんな人にとっても、家族が最も大切だ。仕事一筋で、家族をまったく顧みないように見えても、家族のことは最優先事項である。大切な家族の生計を立てていくために、一生懸命に働き、会社に尽くしているのである。                                        ただ、人によっては、仕事に一心不乱になていくにつれて、「家族のため」という当初の目的を忘れてしまうだけである。「手段」である要素のほうが多かった仕事が、いつの間にか「目的」自体になってしまうのだ。本来転倒と言うほかはない。                          「家族と仕事とどちらを大切にするべきか」という点は、よく考えてみれば明らかである。           家族を取り替えるのは、不可能に近い。たとえ取り替えることが出来たとしても、相当な「痛み」を伴う。仕事のほうはと言えば、いざとなれば、それほど取替えが難しいものではない。実力さえ備えておけば、人材流動化の時代における転職は容易である。                とにかく、家族の重要性は否定できない。したがって、上司にときどき家族のことを聞かれると、嬉しいと思う。特に子供について、「何年生になったの?」とか、「相変わらずバレエやっているのか?」などと聞かれると、聞いてくれた上司に対して人間味を感じる。                 上司が、自分の子供の名前やだいたいの年齢などを覚えていて、それを口にしてくれれば、部下としては感激する。「そんなにまで自分や自分の家族に関心を持っていてくれたのか」と思い、人間的な親しみを覚える。                                          部下を招いて食事をするのも良いが、たまには家族も一緒に招いてみる。家族ぐるみのつきあいになれば、上司と部下との親密度や信頼度も、さらに高まるのは間違いない。本人同士だけでなく、本人の背後にある家族同士の結びつきもできるからである。       自分自身のことよりも、自分の家族のことを気遣ってくれるほうが、ありがたみが大きい。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

押し付ける人ほど、結果に不満を持つ

入社して数年たったその先輩は、やたらと後輩に仕事を押しつける。仕事をさせるのはいいのだが、問題は自分でできることでも人にやらせ、その結果にケチをつけるということだ。    上司に命じられた仕事を「ちょっとこれ、手伝って」と半分以上押しつけて、出来上がった後、   「こんなのじゃダメだよ。どうしてもっとうまくやれないんだ」                                相手は自分の仕事でも忙しい最中、断わらずにやったのである。                            「押しつけておいて何を抜かす。それなら自分でやってくれ」                            ムッとくるのも当然だ。                                                        先輩が不満を持つのは、想像していた結果と違うからだ。先輩の頭の中では「ここはああして、あそこはこうして」とすっかり筋道ができあがっている。それと異なるから「あれ、思っていたのと違うぞ。何だよ、これは」となる。                                  おまけに先輩は、「自分だったらここはこうしたのに」「自分だったらこういうやり方はしなかったのに」とも考える。それでますます人のやったことが不満になる。                   これまた「私とあなたとの違い」が、分かっていない人である。この手の人が好かれない理由はここにある。自分の予想通りにならないと不満たらたらだから、嫌がられるのだ。            押しつけた後で、                                                   「ありがとう。おかげで助かったよ。僕がやるより良かったみたいだ」                        とフォローすればいい。そうすれば相手には「押しつけられた」ではなく「お役にたてた」という気持ちが残るではないか。                                          もうひとつ、押しつけ屋はまた、支配欲求の強い人でもある。支配欲求というのは相手を力でねじ伏せよう、支配下に置こうとする気持ちで、これが強ければ強いほど、権力、武力、腕力に願ったり、立場を傘に着たり、相手を意のままに動かそうとする。             ある心理学者が、アメリカの歴代大統領の就任演説をもとにして性格分析をしたことがある。それによると、任期中に戦争を起こした人は例外なく、さまざまな性格の要素の中で支配欲求がもっとも強い人ばかりだったと言う。                                 「世界一強い国であらねばならぬ」とされているアメリカの大統領になろうというぐらいだから、支配欲求が弱ければ仕事にならないのかもしれないが、それにしても例外なく戦争を起こしたというのだから、支配欲求、おそるべしである。                             あなたは何かを人に押しつけてはいないだろうか。善意、我慢、価値観、好み・・・。                思い当たる節があったら、もう一歩突っ込んで考えてみよう。あなたはそれを押しつけることで、無自覚のうちに相手を支配しようとしてはいないだろうか。あなたは無自覚でも、相手はどう受け取っているのか・・・・要注意である。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

押し付ける人

気心の知れた者同士の宴会では、モノマネ名人が生き生きするという。長嶋茂雄なら「え~、ナニナニですねえ」・・・・。田中角栄なら「まあ、そのお」。竹村健一なら「だいたいやねえ」・・・・。モノマネといったら、この人たちが相場ということだが、口ぐせというのは、実に人さまざまということだ。おまけに性格やものの見方まで表れてしまうのだから、口ぐせはこわい。あなたの口ぐせは何だろう。ふだん自分がどのような言葉をよく口にするのか、振り返ってみたことがあるのだろうか。                                                  若い知人の場合はこんな感じだ。                                                 「絶対、何々だってば」                                                 「私は、こうするべきだと思うね」                                                        「普通、こうだろ」                                                   断定的なこの手のせりふ、「絶対」「べき」「普通」がやたらに多いのである。これがまわりの人たちには、「何となく押しつけがましい」と映る。                            誰かがアニメ映画を観に行ったら子供ばっかりだった・・・・と言った次の瞬間、                「当たり前だよ。いい年した大人はそんなところへ行かないよ、普通」                   彼の頭の中では「大人は行かないのが普通」であっても、この人は大人の友人と連れ立って行って、十分に楽しんできたのだ。そんなことに「普通」も何もないだろう。                      また、誰かがフリーター生活をやめて企業に就職したと聞いたときは、                     「人間、絶対に定職に就くべきだもんな」                                     いったい何を基準にして、そこまで言い切るのか。そう聞きたくなってしまう。                         この人が盾にしているのは常識というものだろうが、この常識もまたさまざまな価値観の上に成り立っているものだ。                                             「絶対」「普通」「べき」が口ぐせの人は、心のどこかで「私の常識はみんなの常識」と決めてかかってはいないだろうか。その決めつけが、人には「押しつけがましさ」に感じられるのだ。                                                            押しつける人というのは、どうやら、いつもいつも一方的に押しつけてばかりいるわけではなさそうだ。押しつけもするが、押しつけられればイヤといえない。そういう人が結構いるように思えるのだが、どうだろうか。                                                     ノーと言えない・・・・とグチをこぼす知人がいる。                                 「余計なお世話だと思っても、断われないんですよ。だって、相手は私のために言ってくれているのだから」                                                 というのがその言い分だ。この人はよけいな仕事でも頼まれるとはいはい引き受けてしまい、あとで苦労することも多いのだが、それにも、                                     「相手が大変そうだから、やってあげなくちゃと思って、つい」                               根っから、断われない性分なのである。                                      ならばいつも受け身の立場かというと、そうではなく、この人自身がしばしば人に頼み事を押しつけたり、善意を押しつけたりする。                                     「ぜひ手伝って欲しいの。ね、お願いします。あなただったらやってくれるわよね」             「これ、いいでしょ。あなたの分も買っておいたからね」                              とまあ・・・・こういうふうに、有無を言わさずという感じである。                          要するにこの人は、自分が断われないから、人もそう簡単には断わらないだろうと思っている。自分が相手のために言っているのだから、人の善意も断われない。                 「私のためにいってくれたことは何でも受け入れる」                               は、裏返せば、                                                     「私もあなたのためを思っていっている。だから断わってくれるな」                           である。                                                        こういう人同士なら、おそらくうまくいく。私のために、あなたのために、と、お互いにベタベタと優しくし合って生きていける。                                          しかしそうでない人にとっては、暑苦しいことこの上ない。だいいち、何でもかんでも受け入れていたら、心の奥底に不満がたまっていく。不満はいずれ相手にも向かう。結局は言い関係を保つことができなくなるのだから、                                    「ごめんなさい。手伝いたいけれど、無理してやったらかえって足を引っ張りそうだから他の人にあたってみて」                                               「ありがとう。あなたの気持ちは嬉しいけど、もう気を遣わないでね」                  などと、気兼ねなく言える関係を築いていく方が、よほどいいではないか。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 9日 (水)

無理をしない人は、謝り方で人に好かれる

「私としたことがお恥ずかしい」                                              「私としたことがとんでもない間違いをしてしまいまして」                                     これが口ぐせのようになっていた人が、あるとき、こう言われたそうだ。                        「お前はいったい何様のつもりなんだ。ふたこと目には『私としたことが』って。お前はそんなにデキる人間だと思っているのか」                                           その場は、                                                        「いえ、そんなつもりはないのですが・・・」                                      と、うろたえながらも逃れたが、あとでよくよく考えてみて内心ハッとしたという。                 彼が思い当たったのは、「私としたことが」と口にしたとき、心のどこかに自分を過信する気持ちがあったのではないか、ということだった。                                 「私はほんとうはもっとできるはずなのに」                                    「私ともあろう人間が、こんなヘマをするはずがなかったのに」                         「この私がこんな失敗をするなんておかしい」                                       そういう気持ちが「私としたことが」の一言に現れていることに気がつき、大いに恥じたという。彼や彼を叱った人が言うとおり、「私としたことが」は表面的には謙虚なように聞こえて、そのじつ、不遜な印象を与えるものなのではないか。                            自分を過大評価していると、何か失敗したときや上手くいかなかったときに、「こんなはずじゃないのに」と思う。それで、次はもっと上手くやってやろうと頑張ればいいのだが、自分の本当の実力を知らなければ、足りないところを補うことも、今の実力をもとに積み上げていくこともできない。                                                  自信をもつのはいいことだ。自信のある人は余裕のある生き方ができる。何かに失敗しても、すぐに立ち直れる。反対に自信のない人は、卑屈になったり、その反動で自分より弱い人や立場の低い人を見下したりする。また失敗するのではないかと思って、やり直しに躊躇することもある。                                                 だが、自分のほんとうの能力を知らないと、「私としたことが」の人のようになる。無理せず、背伸びせず、自分のほんとうの姿を見極めよう。もし失敗しても、                         「私の能力は精一杯使ったのですが」                                           と謝ればいい。「ほんとはもっとデキる人間なんだけど」と言い訳するより、はるかに感じが良いではないか。Photo

<a href="http://travel.blogmura.com/"><img src="http://travel.blogmura.com/img/travel150_49.gif" width="150" height="49" border="0" alt="にほんブログ村 旅行ブログへ" /></a>

にほんブログ村 旅行ブログ 夫婦旅行へ にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 8日 (火)

幹がしっかりしていない人は、かたくなに自分を守る

ふた昔ぐらい前のテレビのホームドラマには、よく頑固おやじが登場した。                       彼らは、まず自説を曲げない。いいものはいい、悪いものは悪い、好きなものは好き、イヤなものはイヤと、一刀両断にする。理由はない。                                       「つべこべ言うな、おれがいいものだと言っているんだから、いいものなんだ」                 というセリフは、頑固おやじの定番だろう。                                      彼らは、嬉しさを表現することも非常に下手である。たとえば、息子や娘たちが父の日に若々しいデザインのネクタイをプレゼントしたとしよう。                                「何だ、けばけばしい。こんなの締められるか」                                     などと悪態をつく。しかし陰では、こっそり鏡に向かって、嬉しそうな顔をする。こんな具合だから、妻への感謝の気持ちなどもとうてい表せない。まあ、昔のドラマのことだから、妻も「お父さんはそれでいいのよ」などと言っているわけだが。                            このような人は、決して強いわけではない。理由を問われてもきちんと説明できるほどのものはなく、照れ屋で、意地を張って、強がりを言って、カラ威張りしている・・・・これが愛すべき頑固おやじの実態なのであろう。                                      テレビドラマの頑固おやじに限らない。頑固な人というのは、一見、自分を強くもっているように見えて、意外と「自分がない」のではないか。                               たとえば、一度考えたことを断固曲げようとしない。思い込みを修正しようとしない人が、なぜそうなるのかといえば、過剰な防衛心のせいではないのか。鉄の壁を張り巡らせて、「自分の考え」「自分の感性」を守らないと、崩れてしまいそうになる。その程度の弱い人なのである、ほんとうは・・・・と言ったら、ミもフタもないのだが、そういう面はあるのではないか。                                                             こうして「弱さ」をひた隠しにするための壁をつくり、かたくなに自分を守る。これでは対人関係がうまくいかなくなるのは当たり前である。                                 ほんとうに自分の信念というものを強く持っている人は、臨機応変に七変化しようが八変化しようが、自分が軸としているものは変わらない。だから柔軟になれる。                 強い人ほどアタマが柔らかく、人の意見や状況に柔軟に対応できる。好かれる人とは、ほんとうの意味で強い人でもある、ということだ。

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 夫婦旅行へ にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 7日 (月)

「目からうろこが落ちる」人は、気持ちがいつも新しい

自分がしてもらって嬉しいことを、人にもしてあげよう・・・・というのが信条の人がいる。まあ・・・ケチをつけるつもりはないが、これには落とし穴もあることを書く。                     ある人の友人が手術のために入院したときのことだ。彼女の性格としては、こういうときは、もちろん手術が終って一段落ついてからではあるが、とにかく「見舞いに行く」ということがとても大事なことと思っていた。                                             なぜなら、もし自分が入院したら、いろいろな人に見舞いに来て欲しいからだ。退屈な入院生活、少しでも外の空気を伝えてもらって気晴らししたい。たくさんの友人に見舞ってもらえば寂しくなくなる。見舞いに来る人数は人気のバロメーター、家族ぐらいしか来てくれなかったら悲しい・・・・。そう考えるからだ。                                           共通の友人を「見舞い」に誘ったが、意外にも、「行こうかどうしようか迷っている」という。   友人の返事はこうだった。                                              「行けば喜ぶかもしれないけど、彼、ふだんもの凄く忙しい人だよ。入院したときぐらい、ひとりでのんびりしたいと思っているかもしれないよ」                               この人は「そういう考えもあったのか」と、目からうろこが落ちる思いだったという。           見舞いに来てもらえれば誰でも喜ぶものだと考えていて、そうではない場合があるかもしれないことには思いが至らなかったのである。                                  そういえば入院した友人は、このところ、ろくに休暇も取っていない。家族が多いから、家に帰っても落ち着いて本も読めないと言っていた。確かに、静かな環境でのんびりできるのは病院ぐらいしかない人なのだ。                                       結局ふたりは友人が退院してから会ったが、友人は「入院はいい休養になった」と言ったそうである。                                                   もし、「私だったら賑やかなほうが嬉しいから」と主張して、友人を何人も連れて病院に押しかけて行ったら、どうだっただろう?彼女の想像力も「好かれる人」の要素のひとつだが、友人の柔軟性もかなり好感度は高い。                                   「そういえば、そういう考えもあるね」                                      自分の価値観に固執せずにさらりと受け入れることができる人は、その相手とだけではなく、いろいろな人間関係を上手にやっていける人だ。

にほんブログ村 健康ブログへ にほんブログ村 健康ブログ 心と体へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)